高取城跡(高取山)と町家の雛めぐり

報告:SHIRAISHI

高取山と言うより日本三大山城で知られる高取城跡のある奈良県高取町では、3月に町家100軒でお雛様を展示公開しているとの情報を得た。これはぜひ行かねば!

近鉄大阪阿部野橋から急行吉野行きに乗車。壺阪山駅で大勢の登山客が下車した。今日は吹田労山の方々も同じところへ行かれるようだ。あのグループではないかと思っていたが、後で聞いたらやはりそうであった。往復とも偶然同じ列車となった。

 壺阪山駅を出てすぐに信号待ちの長い交差点でR169を越え、十字路を右折するとそこが情緒ある町並みの土佐街道である。先に高取城跡(高取山)に登ってから、後でゆっくり雛めぐりをする予定であったが、すでにお雛様を展示しているお宅もあり、チラ見しつつ歩く。地元の野菜・果物が売っている場所では立ち止まってタケノコ、苺、お餅等を買い求める。お昼のお弁当はすでに用意しているのに、おいしそうなお寿司につられて買う人あり。苺・お餅等はその場で皆に分けていただく。

江戸時代を思わせるような町並みを楽しみながら歩いていると、やがて車道に出て右上前方の山中に壺阪寺の大観音石像が見えてきた。民家のある橋のところで少し迷ったが、ほどなく車道の下に壺阪寺参道を見つけた。ところどころぬかるんだ道をしばらく歩き、階段を上がると突然目の前に壺阪寺が現れた。壺阪山駅からバスも出ており、車もいっぱいで観光地のようであった。

 しばし休憩の後、高取城跡ハイキング道標のある階段を上がり、車道を10分ほど歩くと高取城跡への道標に到着した。ここからは本格的な山の道となる。まもなく大きな岩一面に刻まれた五百羅漢石仏群が見られるようになる。風雨にさらされ苔が付いた石像もあるが、一体一体が非常に表情豊かで見る者を釘付けにする。歳月を経てよくここまで現存されてきたものと感心した。そのあたりからけっこう急な登りで、壺阪寺から見えたNTT電波塔を確認するようになる。最初に出てくる壷坂口門址に始まり、いくつもの門址。今も残る本丸・二ノ丸の立派な石垣には圧倒された。東屋もあったが、お天気が良いので太鼓櫓跡の石垣の上に上がり、下を見下ろしながらゆっくりと昼食にした。登山の格好ではなく、赤ちゃんと犬を連れた若い夫婦を見て驚いたが、かなり上まで車で上がれるようだ。本丸は西方面が開けており、真正面にあるのが金剛山らしい。584mの表示のある三等三角点が設置されている。同行者に三角点の上面の辺の長さについて質問を受けたが、恥ずかしながら知らなかったため帰宅後ウィキペディアで調べたところ次のとおりであった。

一等三角点:18cm  二等三角点:15cm  三等三角点:15cm  四等三角点:12cm

五等三角点の新設は行われておらず、現在では沖縄県の小島の3箇所にあるのみ、とのこと。三角点は同じサイズじゃなかったのか・・・へー知らなかった。

 下山途中に国見櫓跡の道標があったので左の小道を上がってみた。内心「跡ではなぁ・・・」と思っていたが国見櫓と名がついているだけあって、なかなかの眺めであった。ここへ夜間に登る人もいるらしい。やがて、一目で猿と分かる猿石が現れた。思っていたよりも大きな石であった。下からここへ至るきつい道は一升坂と名付けられ、高取城へ石材を運ぶ人夫に米一升を余分に渡して働いてもらっていたそうだ。上子島砂防公園では赤や白の梅が咲いており、休憩所やお手洗いもあり一服した。

民家が見えるようになってくると、町家の雛めぐりが楽しみになってくる。道の両側の民家の軒先や玄関に飾られている立派なお雛様を見ながら、観光客にまじってホコ天のような道をゆっくりと駅に向かった。

高取城跡(高取山)だけでは、舗装道路歩きが長くて正直なところ退屈する。今回お雛めぐりのタイミングで企画し、石仏群・山城跡・お雛様と盛りだくさんの山行となり、男性にも女性にも楽しんでいただけたと思う。

 【行 程】
近鉄大阪阿部野橋820==近鉄壺阪山駅出発910→→1055壺坂寺 休憩→1115 五百羅漢石仏群→→1220高取城跡天守閣昼食
→→猿石→→1420上子島砂防公園
休憩→→1610近鉄壺阪駅1623==17:12近鉄阿倍野着   反省会後解散   (記録:城戸)

     壺阪寺                五社大神                  五百羅漢石仏群

  五百羅漢石仏の前で     日本三大山城説明看板              すばらしい石垣美                  猿石

             町屋の雛飾り           圧巻の雛飾り                             2015年高取町雛巡り

【高取城跡について・・・高取町観光協会HPより抜粋】   

高取山(583.9m)山頂に築かれた典型的な山城。
南北朝以来、越智・本多・植村氏の居城として使われてきた。
元弘2年(1332年)、南朝方に属した高取の豪族、越智八郎が築城。越智氏の時代(1533年)までは、深谷峻賀崖の天険を利し、橋梁を設け本棚を廻らしたカキ上げ城で本城は貝吹山城であった。
その後、郡山城主となった豊臣秀長の命を受け、天正13年(1583年)に本多氏が入城、時の軍学者、諸木大膳技師長となり、石塁を築き土塀を廻らし、本丸に大小の天守閣を起こし、多門を連ね、幾多の櫓楼を配して、山城に平城の築城技術の長所を採用し、要害堅固と美観の完成で面目を一新。近世的城郭として整備された。

本多氏が絶えた後、譜代の大名の植村家政が寛永17年(1640年)に入城。明治2年(1869年)の版籍奉還まで、14代に渡り居城した。版籍奉還により明治政府の管轄になり、明治6年(1873年)に廃城となった。
高取城は城内(ニノ門より内)と郭内(釘抜門より内(こちらの「札の辻」項参照))に分けられる。城内は、約10,000平方m、周囲約3Km、城郭は約60,000平方m、周囲約30Kmという広大な物で、山城としては日本一であろう。
三層の天守、小天守を擁し、27の櫓(内、多門櫓5)、33の門、土塀2,900m、石垣3,600m、橋梁9、堀切5ヶ所。
現在、楼閣などことごとく消滅したが、石塁等は旧規模のまま存在し、本丸・ニノ丸の約10m余の石垣は昔日の傍観を呈し、更に当初の土塀跡も樹林雑草に隠見する遺構によって察知することが出来る等、ふもとの城下町とともに明治まで続いた山城としては、日本で、ほとんど唯一の例で、極めて貴重な遺構である。
国の指定史蹟である。