高取城跡(高取山)と町家の雛めぐり
報告:SHIRAISHI
高取山と言うより日本三大山城で知られる高取城跡のある奈良県高取町では、3月に町家100軒でお雛様を展示公開しているとの情報を得た。これはぜひ行かねば!
近鉄大阪阿部野橋から急行吉野行きに乗車。壺阪山駅で大勢の登山客が下車した。今日は吹田労山の方々も同じところへ行かれるようだ。あのグループではないかと思っていたが、後で聞いたらやはりそうであった。往復とも偶然同じ列車となった。
江戸時代を思わせるような町並みを楽しみながら歩いていると、やがて車道に出て右上前方の山中に壺阪寺の大観音石像が見えてきた。民家のある橋のところで少し迷ったが、ほどなく車道の下に壺阪寺参道を見つけた。ところどころぬかるんだ道をしばらく歩き、階段を上がると突然目の前に壺阪寺が現れた。壺阪山駅からバスも出ており、車もいっぱいで観光地のようであった。
一等三角点:18cm 二等三角点:15cm 三等三角点:15cm 四等三角点:12cm
五等三角点の新設は行われておらず、現在では沖縄県の小島の3箇所にあるのみ、とのこと。三角点は同じサイズじゃなかったのか・・・へー知らなかった。
民家が見えるようになってくると、町家の雛めぐりが楽しみになってくる。道の両側の民家の軒先や玄関に飾られている立派なお雛様を見ながら、観光客にまじってホコ天のような道をゆっくりと駅に向かった。
高取城跡(高取山)だけでは、舗装道路歩きが長くて正直なところ退屈する。今回お雛めぐりのタイミングで企画し、石仏群・山城跡・お雛様と盛りだくさんの山行となり、男性にも女性にも楽しんでいただけたと思う。
近鉄大阪阿部野橋8:20==近鉄壺阪山駅出発9:10→→10:55壺坂寺 休憩→11:15
→→猿石→→14:20上子島砂防公園
【高取城跡について・・・高取町観光協会HPより抜粋】
高取山(583.9m)山頂に築かれた典型的な山城。
南北朝以来、越智・本多・植村氏の居城として使われてきた。
元弘2年(1332年)、南朝方に属した高取の豪族、越智八郎が築城。越智氏の時代(1533年)までは、深谷峻賀崖の天険を利し、橋梁を設け本棚を廻らしたカキ上げ城で本城は貝吹山城であった。
その後、郡山城主となった豊臣秀長の命を受け、天正13年(1583年)に本多氏が入城、時の軍学者、諸木大膳技師長となり、石塁を築き土塀を廻らし、本丸に大小の天守閣を起こし、多門を連ね、幾多の櫓楼を配して、山城に平城の築城技術の長所を採用し、要害堅固と美観の完成で面目を一新。近世的城郭として整備された。
本多氏が絶えた後、譜代の大名の植村家政が寛永17年(1640年)に入城。明治2年(1869年)の版籍奉還まで、14代に渡り居城した。版籍奉還により明治政府の管轄になり、明治6年(1873年)に廃城となった。
高取城は城内(ニノ門より内)と郭内(釘抜門より内(こちらの「札の辻」項参照))に分けられる。城内は、約10,000平方m、周囲約3Km、城郭は約60,000平方m、周囲約30Kmという広大な物で、山城としては日本一であろう。
三層の天守、小天守を擁し、27の櫓(内、多門櫓5)、33の門、土塀2,900m、石垣3,600m、橋梁9、堀切5ヶ所。
現在、楼閣などことごとく消滅したが、石塁等は旧規模のまま存在し、本丸・ニノ丸の約10m余の石垣は昔日の傍観を呈し、更に当初の土塀跡も樹林雑草に隠見する遺構によって察知することが出来る等、ふもとの城下町とともに明治まで続いた山城としては、日本で、ほとんど唯一の例で、極めて貴重な遺構である。
国の指定史蹟である。